2011/08/31

京都の街の中の風景

 京都に住んでみて、よく見る光景があります。それは、和服を着た方が多いことです。これは四季を通じて目にする光景です。夏の暑い時にでも、夏用の着物を着ている方をよく見かけます。夏場の着物は、とても暑いものだと聞きますが、着用して歩いている姿は、しゃっきりとして、涼しげに見えます。私は、夏の夕方に浴衣ぐらいしか着ることが有りませんが、日本の着物はとてもきれいなデザインではないでしょうか

 また、番傘を使った風景をみることが多いのも京都らしい光景かもしれません。京都の町家の空間と伝統的な意匠の数々。先進的なデザインを見ることも必要ですが、長らく培ってきたデザインを見て学んでいくことは大切です。学生の皆さんにとっても研究室で庭園のデザインや緑地計画を学んだり、研究を進めたりするヒントにもなることでしょう。


夏の着物

2011/08/30

京都の秋の空

 京都の空は、もう秋の装いを感じます。午前中の一定の時間には、まだクマゼミが少し鳴き、昼間には、アブラゼミヒグラシが頑張って鳴いていますが、感じは秋のような雰囲気を持っています。日中の暑さはまだ厳しく残っていますが、入道雲の沸き立ち方も弱々しい気がします、朝の一刻や夕方の頃には、秋の空が広がるようになりました。台風が近づいているからかもしれません。

 もう、二十四節季の「処暑」は、過ぎてしまい、間もなく「白露」に近づいています。今年の夏の季節は、不安定で季節感がなんだか慌ただしい感じでした。見上げる秋の空は、薄青で空高く、子供の頃の思い出や中国に居た秋の風景を良く思い出します。空が高く澄み切った光景は、いつ見ても美しいものです。そういった光景をこれからも見られたらいいなと思いました。天高く馬肥ゆる秋。まさにその通りで、これから色々と美味しいものが身の回りにあふれていきます。それも秋の楽しみの一つですね。

再来一杯!秋天!

秋空

2011/08/28

研究室のニホンイシガメ

 私の研究室にニホンイシガメ(Mauremys japonica)がいます。昨年の初夏に学生が持ってきてくれたものです。研究室の外の廊下で飼育していましたが、季節によって日が当たらないこともあり、今は私の部屋の日当たりの良い所で飼育しています。いつもよく日向ぼっこをしています。そしてこの時期は、よく食べ食欲は旺盛です。

 人間の気配を感じると、ごはんを欲しがります。私が院生の頃に「うちのカメ―オサムシの先生カメと暮らす」という本を読んで、なるほどなあと思ったことがあり、人にだいぶ慣れるものだと思いました。このイシガメも同じです。カメは、基本的にみんな同じなのでしょうね。

 私がカメを飼育するのは、初めてではなく、最初は幼稚園の頃からです。カメが好きで、飼育をずっとしていました。ただ飼育のたびに、何度か盗まれました。なぜなら庭で日光浴をさせていたからです。そこは人の目のつく所でしたので盗られてしまいやすかったのでしょう。一番長く飼育しているのが、震災の年の95年の6月から神戸の実家にいるイシガメです。神戸市西区の野池でつい捕まえてしましました。今では、夏場、大きなトロ箱で飼育し、冬場は家の中に置いた水槽で飼育しています。今では、大きく貫禄があります。食べる量も多いです。

 研究室のイシガメは、まだ2歳になっていません。大きさもまだ小さいですが、昨年より断然大きくなりました。食欲が旺盛なのは、これから大きくなっていくからなのでしょう。出来れば、実家にいるイシガメのように、あまり大きくなってほしくはありませんが…。

ニホンイシガメ

2011/08/27

神戸の生田の森

 神戸の生田神社の境内の北側に森があります。そこが生田の森です。平知盛と源頼朝と源平の戦いや南朝の楠木正成や新田義貞と北朝の足利尊氏の南北朝争乱、荒木村重と織田信長との戦いなどの戦場地でもあったと云われています。

 2001年から、だれでも入ることのできる森ですが、御神域という事で、それまでは入れませんでした。学生の頃、1994年に神戸市の「市民の森」の調査でこの生田の森に入らせてもらったことがあります。その時には、うっそうとした森でしたが、今ではきれいに整備され、市民の憩いの場所になっています。

 かつての神戸が寒村で、開港してしばらくしたころに撮影された写真を仕事で使ったことが有ります。そこには、しっかりと生田の森が写っていました。何もないところにぽつんと森が残っている風景ですが、明治の黎明期に今と同じ場所で森があったことを考えると、同じ場所に植物の個体は違っているとはいえ、「ある」ことに不思議だとおもいました。

 時間が経っているにもかかわらず、そういった光景が残っていることは、なんだか不思議に思えます。こういった光景は、私たちの身の回りにたくさんあります。そういった光景を見つけることは、楽しいのかもしれません。風景の継承というところなのでしょうね。

神戸の生田の森

2011/08/25

戦没した船と海員の資料館

 神戸の海岸通りに、戦没した船と海員の資料館があります。

 幾度か見学に行ったことがある資料館です。この資料館へ行くたびに思うのは、戦争で亡くなった海員の方々の重みを感じる事です。戦争によって多くの船が徴用され、沈没してしまっている現実と、それがそう遠くない昭和にあった現実。重い展示だと思いますし、それを十分考えなくてはならないと感じています。

 神戸は、開放的な街です。その開放的な街の中に、こういった資料館のある意味は大きいと思います。学生さん達には、ぜひ、神戸へ来る際、この資料館も見てほしいと思いました。

海岸通の資料館

2011/08/24

紫明通りの紫明会館の建築物



 京都の紫明通りに紫明会館が建っています。昭和7年の建築物で、モダンで美しい建築物です。周辺は、最近の建築群だらけなので、ここだけが古き良きデザインを醸し出してくれています。この紫明会館の周辺には、様々な樹木が配置されています。実は、この樹木が、周辺の現代の建築群を隠してくれている効果を発揮し、紫明会館が、時代を経て活きてくる空間を作り出してくれているようです。

 樹木が、周辺の環境を目隠しする効果、つまり視覚的な緩和を作り出してくれているようです。だからこそ、その建築の時代の良さを引き出してくれているように思えます。また、紫明通りは、通りの真ん中に公園を配し、美しい街路景観が創出されています。そういった周辺の環境自体も、より良い空間を作り出す要因だとこの場所に立つと実感するのです。京都の街中には、ふっとそんな空間が随所に見られますし、感じられます。

モダンな建築です

2011/08/23

神戸元町のアーケード

 神戸元町通りのアーケードの東入り口です。旧外国人居留地にある大丸神戸店側にあるアーケードです。元町通りは、子供の頃からいつも行く通りで、大人になった今も、よく歩いています。アーケードの顔の入り口は、きれいなデザインの入り口を作っており、港町の神戸らしい明るいデザインです。

 この元町通りは、かつて神戸でも老舗と言われているお店が並んでいました。看板や店構えのデザインセンスもそれなりに高いモダニズムなお店が数多くありました。しかし、残念ながら、今では見る影が有りません。新しいお店のデザインへの意気込みが、別の意味での個性を創り出し、見ると悲しい気がします。時代の流れかもしれませんが、神戸の元町なのに、とても残念な気がしてなりません。

 昔のままが全て良いとは言いませんが、看板や店構えのデザイン、商売の仕方が、残念なことに「雑」な雰囲気を持つお店が増えています。素人の私自身も見ていても単に「お金儲け」中心だなぁと思うことしきりです。街の中の空間は、ある意味「公的(public)」なものです。お店は「私的(private)」ではあるのですが、街の顔ですからあくまで公的たるべきものと思うのです。

 商売人の思いは色々あるでしょう。しかしながら、このデザインセンスの低下は、神戸らしくなく、とても嘆かわしいなあと、厳しい言い方ですが、思わざるを得ません。もちろん、通りにお店が無くなってしまうようなことになれば、街の雰囲気、賑わいも無くなりますので、「雑」なお店でもあることが良いのかもしれず、難しい選択だと思います。

 とはいえ、私は、実家に戻って、元町に訪れるたびに思うのですが、ユネスコの「デザイン都市・神戸(Unesco Design City Kobe)」として、何とかならないのだろうかと思いました。元町通りは、神戸でも「公」より「私」が中心になってきてしまった例だと思いました。こういった事例は、逆に言えば、私が教えている学生さんたちに、「デザインの在り方の事例」を説明できるものといえます。私にとっては、活用できる素材ではあるのですが、しかしながら、やはり神戸の人間としては、残念だなと思わざるを得ないのです…。

元町通りのアーケード

2011/08/22

日本家屋の障子と廊下

 先週末の2日間かけて、広島にある私の曾祖父の家の大掃除をしてきました。先月に続いてです。まず今回は、障子の紙の張り替えをしてきました。12枚張り替えた所でさすがに疲れました。半分も終わっていないのですが、張り替えた障子をはめ込んで見ると、部屋が明るくなりました。

 壁の補修や漆喰の補修もしてきましたが、左官屋さんの大変さがよくわかりました。見ているのと、自分でするのは大違いだと実感しきりです。壁塗りは、思ったよりも難しい。綺麗にできないのが、やはり素人です。

 ただ、廊下と柱の清掃は、綺麗にできました。廊下や柱の材そのものが、油抜けしたようでカサカサでした。埃や塵を掃除して、軽く水拭き後、すぐに乾拭きし、乾燥したのちに油を引いて、さらに乾拭きし、磨いていきました。祖母に聞いたことが有るのですが、昔は床を糠で磨いていたそうで、黒光りだったようです。日本の家屋は手をかけると、きれいになっていきます。今の新しい建築も良いのですが、「手をかける」ことで面白くなっていく建築物は、手入れのし甲斐が有ります。ただ、掃除に頑張りすぎて、次の日には筋肉痛になってしましますが・・・。

張り替えた障子紙と廊下

2011/08/18

大文字の送り火

 816日に京都で五山の送り火が行われました。今年は、私自身、個人的なこともあって深く送り火を見させてもらいました。もちろん東日本大震災の事もあって、見守る方それぞれに思うことがあったと思います。今回、火がともり、少し時間が経って行くと、背景に月が顔を出してきました。とても幻想的な光景で、美しいものでした。

 毎年見るところは同じなのですが、御所の蛤御門を中に入って、見させてもらいました。御所の塀と大文字に向かう先にある松がとても良い風景を創り出しているようです。


大文字とお月さま



2011/08/15

夕刻の鴨川の景観

 北大路大橋から北側をみると西賀茂船山が見えます。五山の送り火の山の一つです。夕方、この橋からその方向を見ると山の稜線と河畔林のニレ科の植物の線がくっきりと見えて、きれいな景観を創り出してくれています。京都らしい景観の一つだなと見るたびに思います。

 この暗くなりつつある空の色が、少しだけ鴨川に反射して薄く白い線をつくりだしています。また、道路には車のライトがつーっと走り、空のコントラストと合わせてきれいな情景をつくっているようです。京都は、神社や仏閣の風景、庭の風景などたくさんの素材を持ち合わせているのですが、何気ないこういった風景にも美しさが出ていると思います。

 京都らしさを考えると、色々な意見が出てきますが、自然の空間をうまく取り込んでいる景観も京都らしいのではないかと、住んでみて思いました。

夕刻の鴨川の景観

2011/08/14

堀川での仙台七夕飾り

 京の七夕の堀川会場の一条戻橋あたりに、仙台七夕飾りが設置されています。初めて実物を見ました。映像などでは見たことはあったのですが、実際にその飾りを見て、きれいだと感じました。存在感も大きいもので、仙台ではこれが普通なのかと思うと、本場ではとても迫力ある七夕飾りだろうなと想像しました。

 写真はその中の一つの絵ですが、なかなか洒落が効いていて楽しい絵柄です。大黒様と米俵、そしてお餅をつくネズミたち。書いた人は楽しかっただろうと思いました。なぜなら、大黒様やネズミたちの顔の表情が穏やかだからです。東日本大震災を経て、いろいろな面で疲弊している中での仙台でのお祭り。その地域が、良い方向へ一つのステップアップに変わっていけばと願わざるを得ません。

 阪神淡路大震災の被災者の一人として、あの時はどうだっただろうか、どう精神的にも復帰していっただろうかと考えました。やはり、時間がたってもあの時の記憶は消えませんし、余り思い出したくはないものです。震災といった大きな災害を経験した被災者の人たちにとって、時間が解決する事なんぞありえないと思います。私自身がそうです。時間がたっても「時間」は、薬にもなりませんでした。来年1月で阪神淡路の震災から17年目に入りますが、あの時のつらい記憶はそのままです。時間がたって忘れることが出来ればいいのでしょうが、なかなか厳しいものがあります。東日本大震災の被災者の方も、無理せずにと、思わず七夕飾りを見て思いました。七夕飾りが阪神淡路の記憶をオーバーラップしていったようです。

大黒様と鼠

2011/08/13

堀川の京の七夕

 家の前の堀川通り横の堀川で、京の七夕のイベントが815日まで開催されています。昨年から行われているこのイベントには、家族連れなど訪れる人も多く、夕方から堀川通りがにぎやかになっています。みなさん涼を求めたり、光のトンネルを楽しんでいたりしているようです。家から会場まであまりにも近いので、昨年に引き続き、私も少し見に行ってみました。

 堀川をまたぐように竹でトンネルを作り、その間に光を這わしてきれいな光のトンネル、天の川のトンネルになっています。川の中には七夕飾りをした竹を置いたり、青く光る光の玉を堀川の流れに流していたりと、とてもきれいで、視覚的に楽しめる空間を演出しています。こういった取り組みは、観光客を増やしていくことにつながっていることがよく分かります。京都市が観光客を増やしていくといった戦略をとっていることから、その一端を担っているようですね。そうはいっても、純粋にイベントとして楽しめます。

天の川のトンネル

2011/08/12

千本通りの稲荷神社

 この神社は、出世稲荷神社といいます。ここは、太閤秀吉さんのゆかりの神社です。以前から気になっていたので、近くに暑気払いへ行った際、時間が有ったので行ってきました。お社より、気になったのは狛犬です。なんとも柔らかい雰囲気と、夕焼けが反射して暖かい感じを受けました。

 夕刻に近づく夏の時間ですが、狛犬の顔をみると、なんとも暑さを少し忘れそうになりました。もう一体、向かいに狛犬が鎮座しているのですが、そちらは、樹木の木陰の間に涼しそうに居ます。「ここにいますよ」と言うような表情が何とも楽しげです。

 稲荷社に行ったのに、狛犬の方がなんとも気になって、ちゃんとお参りはできませんでした。

出世稲荷と狛犬

2011/08/10

鴨川下流域での鳥類調査

 鴨川と桂川合流点の区域で、鳥類調査を院ゼミ生が進めています。鴨川流域の鳥類の総合的な調査を進めている所ですが、下流域の鴨川は、若干緩やかな流れになり、今日は、サギ類が数種見られました。途中、釣りを楽しんでいる人やジョギングをしている人などを見かけると、この河川が市民に親しまれている河川だなあとつくづく思います。

 鳥の調査は、こつこつと進めていきます。すぐに数字のデータが出るわけではなく、生き物の調査には、近道などありません。また、自然を相手に調査を進めることから、天候も問題になりますし、ある程度の期間の調査が必要になってきます。調査の結果得られたデータから、どういった環境や場所でそのような鳥類が生息しているか、逆に、こんな鳥類がいたので、ここの環境は良い環境かもしれない…といったように、鳥類を指標として調べていきます。生き物の調査は、面白く楽しいのですが、その後のデータをどう扱うのかが問題です。

 とはいえ、調査で鳥を見るのは楽しいものです。私たちの身の回りにもさまざまな鳥が見られます。ゆっくり見渡すと色々な種類の鳥がいることに気づくはずです。ぜひ、身の回りの鳥たちを見てみて下さい。たぶんですが新しい発見が出来て、楽しいと思います。

鴨川下流での鳥調査

2011/08/09

神戸旧居留地のソテツ

 神戸旧居留地にあるホテルの入り口にソテツ(Cycas revoluta)を使った植え込みがあります。入口に大きなソテツの鉢を置いているのです。観葉植物として使用されるソテツですが、ソテツ類の中で唯一の日本自生種です。神戸の小学校に通っていた際、学校の植え込みにも使われていましたし、友達の家にも植えてありました。親しみのある植物のソテツですが、実はCITESのワシントン条約の付属書Ⅱ類に載っている種でもあるのです。今回、調べてみて初めて知りました。

 私たちにとっては、見ることの多いこのソテツは、大きくなるととても重量感と存在感のある植物です。ホテルの、それも神戸旧居留地内といった歴史的な場所での、この植物の使い方としては、とてもデザイン性が高く、設置の仕方がきれいだと思いました。ただ、少し植物自体が窮屈な感じを受けることから、若干大きめの鉢だったらとは思われます。デザイン性を重視した見せ方は、とても大切です。しかし、植物の寿命の事も考えてあげれば、もう少し大きめで若干のゆとりが必要な気はします。植物は生き物です。ですので植物との対話は大切です。

 とはいえ、見せ方としては、ホテルの入り口として、とても上手な使い方だと思いました。ホテルへ訪れる人たちにとっても、印象深いものになるのではないでしょうか。旅行やビジネスで神戸へ訪れ、泊まりに来る人にとって、このようなホテルの入口の印象は、これから宿泊する心持、期待が良い方向へ大きく変わっていくと思います。ワクワク感のような感じです。そういった際の植栽デザインの美しさは、ホテルに花を添える役割をしていることでしょう。

ソテツの鉢への植え込み

2011/08/08

山本二三展

 神戸市立博物館で開催中の山本二三展を、神戸へ戻った際に見に行ってきました。神戸ビエンナーレ2011のプレで企画されている展示会です。山本二三さんが描くアニメーションの背景画、イメージボード、スケッチなどが展示されています。折しも夏休みの期間中でしたので、小学校や中学校の子たちが多く見学に来ていました。

 美術作品は、画集でも勿論見ることはできるのですが、やはりオリジナルを見ることは大切かつ重要です。作家が絵に向かっている際の気迫や気持ちもその作品の前から出てくること、それは画集から見ることのできない重要な点だと云えます。もちろん、その絵のタッチなどもオリジナルから見て取ることができ、学ぶことは多いはずです。この展示会をきっかけに、たくさん来ていた子供たちが、絵への興味を持ってくれるような気もする楽しい企画展でした。

 私自身も、こういった企画展示会にぜひ大学のデザインの講義などへも活用していきたいと思いました。さて、どう学生さんたちに学んでもらえるようにしていくのか…。研究の合間の、私の夏の間の宿題になりそうです。

※山本二三展は、神戸市立博物館で、9月25日まで開催中です。
 詳しくは、市博のホームページをご覧ください。

神戸市立博物館

2011/08/07

夜の空の色

 職場の近くに北大路大橋という鴨川にかかる大橋があります。写真を撮影したのは、夕方から日が暮れていき、もうすぐ夜になりつつある時間で、車のヘッドライトの光と街灯の明かり、大橋の欄干の灯りがとても夕闇にはえています。

 私たちが夜に歩く場合、光や灯りが照っていることで、その周りを見ることができます。そして、光が照っている空間の私たちの歩く場所から、その上の空の部分には、群青色の暗い闇が迫っています。その群青色の中で、三日月が少しの灯りを照らしています。空を見上げて歩く中で、三日月の小さな灯りは、私たちの道を照らしている人工の明かりに比べて、温かみがあるように私は思えるのです。小さいながらも、良く見える灯り。人工と自然。ただそれだけかもしれませんが、見ることによって感じる事は大きく異なってきます。

 私たちは、手元や身の回りを普段から、見ています。これは、仕事や勉強で見る範囲が、そういった空間だからかもしれません。もちろん、視野の中には、空やそれ以外の風景も見えているはずですが、意識をしないと見えてきません。私は、普段の生活の中で、空を見る時間を意図的に作るようにしていますが、仕事に追われたり、雑務があったりと、気が付くと見ているはずのものが、実は見ていないことに気づきます。出来るだけ、空や風景、風の流れや草の色などの自然の光景、そういったものを見る、感じられる時間を作れれば幸せのような気もします。

北大路大橋

2011/08/06

交響詩の時間

 職場の横に京都コンサートホールがあります。そこで行われた京都市交響楽団第549回の定期演奏会に聞きに行ってきました。いつものことながら、残っている仕事を急ぎ片付けて、慌ててホールへ急行です。今回の演目は、夏の夜のお祭りのような曲で、DvořákRespighiRStrausの作曲ものです。中でも、Respighiの交響詩「ローマの祭」(”Roman festivals” symphonic poem)は、にぎやかなお祭り、喧騒、喚起、叫び、熱狂・・・。最後の主顕祭(The Epiphany)は、圧巻でした。

 夏の暑い時期に聞くこの熱狂的な音源。夏だからこそ楽しめた題目だったような気がします。夏の音の熱狂的な音源ということを考えてみると、この7月から鳴き始めたセミの合唱がそれに当たりそうです。朝方のクマゼミ、昼からのアブラゼミやニイニイゼミ、夕刻のヒグラシやツクツクボウシ。大きな音源で、夏を彩っているような気がします。逆にこの声を聞かなければ、「夏」が来たような気がしません。これは、私たちが「音」に対して「季節感」を抱くからです。夏半ばになると「キリギリス」や秋になれば「コオロギ」など、私たちの身の回りには、音「サウンド」によって認識し、季節感を得られます。

 音楽ももしかするとそうかもしれません。日本人の冬には「Beethovenの第九交響楽」が師走を彩っています。そう考えると今回の京響の演奏楽曲は、とても「夏」らしいものかもしれませんね。

パンフレット

2011/08/05

高大連携での演習・京都御所の調査

 京都市の中心部に国民公園の京都御所があります。そこは、京都市街の中に緑の空間が広がっており、私たちにとっても生き物にとっても、心地よい良い場所を提供してくれています。今回は、ここで高大連携の演習場所としました。御所の緑が生き物にとってどういった空間をもたらしてくれているのか。都市にとっての御所の緑はどういった位置を占めているのか。演習に参加している洛北高校の生徒さん達に、こういったことを考えるきっかけを持ってもらうために、野外での実際の状況を見てもらいました。

 今回の演習では、都市生態系の中での緑の存在の重要性について学んでもらえたと思います。今まで学んできたことについて、御所の緑と糺の森の緑はパッチとして空間が構成され、鴨川や高野川もパッチであったり、コリドーであったりと、生き物の生息できる場を提供し、それがどういったつながりで「京都」の町を構成しているのか。そして、生き物はどうやってこれらの空間を活用し、生態系としてサイクルが動いているのか。そういった点を今回の演習で学んでもらえたらと思っていました。

 今回で高大連携の演習は、最後となりました。1週間の期間で、長かったような、短かったような、充実した毎日だったような気もします。私自身も、高校生の生徒さんへの演習と講義の中で、良い話ができたのではないかと思っていますし、逆に教えられることもあり、とてもよい経験だったと思いました。

京都御所での演習光景


2011/08/04

高大連携での演習・糺の森の調査

 京都市の鴨川と高野川の合流地点の少し上に世界遺産の下賀茂神社があります。そこには「糺の森」といった樹林地があり、京都市内でも良い緑地空間を構成しているのです。この糺の森で、高校生への演習を行いました。どういった植物が生えているのか、どういった生き物がいるのかを直接見てもらおうと思ったのです。野外に出ることは、机の上では得られないものがあると私は考えています。

 今回、糺の森でモニタリング調査をされてきた近畿大学で教えられている田端敬三先生にも特別に現場へ来て頂き、植物の遷移や今の植生について詳しく教えてもらいました。高校生の皆さんは、恐らくですが、今まで考えていなかった視点で、この糺の森をこれから見てもらえるのではないかと思います。緑の島になっている糺の森とその横にある都市河川の鴨川と高野川。緑の連続性のあり方やそれが生き物に対してどういった役割を示されるのか。興味を持ってくれればと思いました。

糺の森での調査風景


2011/08/03

高大連携での演習・都市の河川調査

 京都市の北部には、鴨川と高野川があります。この二つの川に挟まれた場所に府立大学や高大連携の学校である洛北高校があります。この両校から、近い場所に2つの都市河川があるのです。「京都市の都市生態系について」を高校生がこの高大連携の演習で学んでいます。そういったことで、今回は高野川での調査を進め、水質、生き物の状態などを調べていいます。

 演習のサポートとして、私の所の院ゼミ生が高校生に対し、調査指導のサポートをしてくれています。写真はその時の光景で、爬虫類(カメ類)の調査と記録の仕方を指導している所です。この高野川も鴨川も都市に流れる河川としては、生き物が多く生息し、多様性も高いように感じます。高校生たちには、他の大都市ではどうかといった事も調べて考えてもらえるようにしているのですが、実際に、この河川の環境を見てどう感じているのか、彼らの演習取りまとめの発表が楽しみです。

 写真の高野川は、ヨシなどの植物が多く繁茂し、それが小さな生き物の避難所になっている個所もあります。生き物にとって良い逃げ場所、避難場所になっていることや、産卵場所にもなっています。豊かなゆたかな都市の生態系の要素の一つです。こういった環境が残っていることは、京都市にとって大きな財産といえると思いますし、大学の近場にこのようなフィールドがあり、観察ができることは、学生にとっても良いことだと云えます。


高野川での調査光景
調査指導の光景

2011/08/02

北京の街・胡同の路地空間

 北京の街中の胡同は、以前にも書きましたが、伝統的な四合院建築が並びながらも人の生活がある空間です。入口は一つなのですが、路地がそれぞれの家をつなぎます。京都の洛中の町家にも同じような空間があります。路地(ろうじ)がそれぞれの家をつないでいるのです。

 こういった空間は、準公共的な空間(semipublic space)といえます。公的(public)ではあるけども私的(private)でもある。そういった空間を北京の街の胡同にも見られるのは、なかなか楽しいものです。街を歩いていくことで、見落としがちなものをふっと見ることができる。使った時間と比例して、このようなものを見つける、発見出来るのかもしれません。

路地空間

2011/08/01

北京の街・故宮横での釣り風景

 故宮には大きく堀により囲まれた場所があります。そこには、魚が生息しており、覗くと魚が泳いでいるのを見ることができます。日本のタナゴやカワムツ、フナ、コイのような感じの魚です。そこで、釣りをしている風景を見かけました。私が北京へ初めていったのは1992年です。その時もこういった風景を見ましたし、北京へ来るたびに見かける風景です。

 私も釣りが好きなので、いつものように、しばらく見てしまいました。この場所は多分、釣り禁止になっても、釣りをする人の風景は変わらないのだろうと思います。ちなみに、現在でも釣り禁止看板は出ていますが、皆さん意に介さない感じです。悪い意味ではなく、これは人の緩やかな文化なのかもしれません。

 92年当時と違っているのは、自転車だったのが電動バイクに乗って釣りに来ていたり、釣り道具が新しいものになっていたりと、来るたびに徐々に変化してきていることです。街の変化は、建物だけではなく、こういった小さいことからも見られます。ちなみに、釣った魚は食べるそうです。この時つられていたのはカワムツ(Nipponocypris temminckii)でした。どう食べるかは聞きませんでしたが、普通に食べると釣り人は言っていました。

 釣りの写真を撮るのは、私だけではなく、イタリアの女性も撮影をしていました。興味があるのでしょう。こういった光景は、人の生活の一端を垣間見られる風景である気がします。釣りは文化ですし、どれくらいの人がここで釣りをしてきたのか、北京の街の文化の中に溶け込んでいる緩やかな時間を私に見せてくれました。

写真を撮る人と釣りの風景