変わらないものもある反面、震災と時代の流れの速さを感じながら、私は、神戸の街が大きく変わってしまったのではないかと、いつも神戸へ戻るたびに思ってしまいます。10年前、神戸を出て東京に行ってから、そんなふうに思うようになりました。子供の時から高校、大学の頃と時代が大きく変化してきていることは、頭の中では理解できているはずで、社会も周りもその変化が著しいのは、実体験として体感できているはずです。しかし、そのなかでも「風景の変化」へは、何かしらの違和感をいつも覚えるのです。
前からあるものが「そこに存在している」こと、そのことに対して、私は安定感を感じているのかもしれません。風景は、時間が作り出しているものが多くあります。もしくは、時間が風景を作り出しているのかもしれません。私たちがその時間と空間のすこしの狭間に、すこしだけいるだけ、居させてもらえているのかもしれません。ランドスケープは、風景を作り出す仕事の一つです。風景を作る、時間をかけることを、ゆっくり考えること、それだけではなくとも、いくつか考えていかなくてはならないことがあります。
時間は止まることなく動いています。その周りも必然的に動いていきます。そんな空間の狭間にいるだけかもしれないのに、1929年から残っている旧居留地38番館のような建築や、その建築と空間に付随するいくつかの要素は、時間を経てもなお、作られた建築当時と同じものがあるのです。例えば、石の一つ一つに建築当時の素材が残っています。石を組んだ人はもういないでしょうが、そこで誰かがが間違いなく積み上げて建設したのです。建設に関わった人は恐らくもういないのに、そこには目に見えて実体物が残っている、そして、残らないものも何かしらあるはずです。風景が残るということは、何かの必然があって残るのかもしれません。とても難しいですね。
石のファサード |