2011/05/31

浄福寺の瓦の景観

 京都の一条通と笹屋町通の間にあるお寺です。町家見学の際に、ある町家の二階から眺めらえた光景です。京都らしい町の空間が広がっているように見えます。連続した瓦の空間は、幕末の光景と重なってくるようです。全国で小京都と言われる町が数多くある中、こういった景観は、今でもいくつか見ることができる空間かもしれません。侍や町人が、ほんのちょっと前の時代には歩き、このような風景を見たのではないか?と想像を掻き立ててくれる景観です。
 この景観は、瓦の陰影や流れがとても美しいと思いました。この町で住む人たちは、日ごろからこういった景観が見られる、何とも幸せな環境だろうとも思いました。京都に住んでこういった景観を見る機会が増えたことは、景観を考える上で楽しくなる光景です。
 しかし、この景観は、いつまで残ることができるのだろうかと思わざるを得ないのです。景観は、生き物と同じと私は考えています。それは、日々変化しつつ、成長を重ねていくのもかもしれません。過去のままの景観が残ることが良いのか、もしくは、変化していく景観が良いのか。景観は、そこに住む住民の方々の選択に委ねることが多くあるとても卑弱な存在なのかもしれません。

 過去のままの景観を未来に繋げるように、そのままに維持すること、それが私たちの価値に値すること、その答えは、一体どういったことに繋がっていくのでしょう。借景の空間に少し問題を紐解く手がかりがあるかもしれません。毎年、京都府大の院生たちを引率して京都市内のお寺の庭園での借景の空間を見学しに行っています。学生たちからは、色々な意見が出てきます。それぞれに景観の有り方を考えてくれるようです。それらの意見も面白いのですが、私自身で考えてみると、借景そのものが、毎年、見るたびに変わっている気がとてもしています。「景観は、生き物」と考えるきっかけがそこにあります。
 景観の要素は、多岐にわたります。例えば、樹木や草花などの植物。これはまさしく生き物です。変化しつつあるものです。変化する中で、それらを維持することの必然性なども、毎年の見学を通じて、何か見えるものがあるような気がしています。それを風景や景観の研究につなげていく中で、さらに何か見えてくるのかもしれません。
 ただ、まだ景観や風景についての答えを模索している所です。

連続した瓦の風景